メサイア 昭和音大 コンサート

第41回メサイア

12月10日ヘンデルのメサイアを聴きに行ってきた、以前は杉並公会堂へ聴きに行っていたがこちらは日本語訳(理解に苦しむ難解な言葉)で抜粋版、遠方で開始時間が19時と遅くさらに無料は良いのだが牧師の説教が長く感じるくらいある、歳のせいか億劫になったでもやはり聴きたい、探したら近くに昭和音大がありそこで相当前(1976)から演奏していることが判り且つ複数回やっていること、また開始時間が15時と早いので2014年からこちらに切替えた。

前からやってみたいことがあり今回はやっと実現した、それは歌詞を読み合わせてみたいこと、つまり入場時に配布している案内の歌詞は一回分だけ、でも実際の楽典はレチタティーヴォ(Recitative)とか言う独唱以外数回同じ歌詞がリズム、音階とか、調?を変えて繰返しているのでどうも物足りない、メサイアの合唱団のある人にねだってみたが知らん顔、そこで楽典を購入してコピー、沢山あって大変、A4両面で4ページ印刷して26枚になってしまった。

実際聴きながら歌詞を追って行くとソロではまずまず、問題は合唱時、一斉に歌えばソロと同じでまずまず、難しいのは例えばアルトから始まり次がソプラノ、テナー同時次にバスとか順次始まると同じ歌詞なのに頭が混乱して且つ4段譜なので相対スピードが早くなってページめくりが追いつかない。
薄暗い客席で紙をめくる音も間々ならない中、難しいが改良点もあるので次回廻の楽しみとした。

今年は昭和音大のTeatro Giglioだけみなとみらいホールでの公演はなかった、Teatro Giglioは2/3位の規模、でもコントラバスが4台と会場の割りに豪華、チェンバロ、オルガン他は普通なのかな。

いつも感じるのは18世紀クラシックは長いことが通例でも100年前のメサイアは計55番位あり変化があって飽きが来ないのが良い、例の第九は前半はカットして後半の20分位からの第4楽章しか聴かない。

今までメサイアを聞く度に音の響きだけを聴いていれば気分良いのだが良いのだがちょっと変わったところがある、イギリス国王ジョージ2世がロンドンでの初演奏会に出席した際、パート2の最後ハレルヤ・コーラスで感動のあまり立ち上がり、聴衆もそれにならって起立したと言う逸話があることから、今でもこの曲に入ると会場で起立する人がいる、以前行っていた杉並公会堂ではかなりの人が起立するので舞台が見難くなる、聴衆には迷惑と思った(球場での熱心な応援も同様)、今回はパラパラで且つ私は2階席、全く関係なかったが初めてのときはいささか異様に映った。

もう一つ、極簡単にメサイアはキリストの預言と誕生、キリストが人々の罪を背負っていけにえになる、キリストが蘇る、これを素直に受止めることは普通一般常識では考えられない。

一方我が般若心経は実在したキリストより500年は早い釈迦の説いた教え、この中でも 死んでしまうときにはどうなるのか、人間は要素(五蘊ゴウン、色、受、想、行、識の五つ)の集まりなので全てのものが雲散霧消してしまうがも五蘊同士のつながりは全て空(クウ)の中でつながっている、人が存在していたことの影響力はそのまま全ての五蘊のなかに残っていると言う教えがある、また最後に羯諦羯諦(ギャーテーギャーテー)と言う咒文、おまじないもあるこれも相当修行しないと難解、結局洋の東西当たり前だが同じ人間と言うことなのかな。